【日曜メッセージ】「平和の音」(平和礼拝Ⅰ)

「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙10章17節) 

 

8月は平和を考える時です。75年前の8月6日広島の原爆、9日長崎の原爆、そして15日は敗戦を覚えて、サイレンや鐘と共に1分間の黙祷がなされてきました。

黙祷は心を空にするのでなく、声を出さず祈りを献げることです。戦争の残酷さ、無残に消された多くの命を覚え、託された祈りを改めて考える時です。

「平和に音がある」と聞きます。その音は繊細で複雑で聞く人の心の有り様で違って聞こえます。平和の名の下に戦争を繰返す歴史では困ります。平和憲法9条に託した祈りに重ねるのも良いでしょう。平和を求め託した沢山の音が聞こえてきましょう。

私の母は17歳の時に頭を坊主に剃り男装し満州から引揚げてきました。妊娠中の女性は異国の子が宿る可能性があると強制堕胎させられたと聞きます。「戦争を語ると怖くなる」と多くを語らないままで、今は認知症となり、貴重な体験の知るべき機会を失いました。

新約聖書は多くの人に福音を伝えるため当時広く用いたギリシャ語で書いた関係で「平和」は、単語の意味としてはパクス・ロマーナ(ローマの平和)同様、支配者の平和と同じ言葉となってしまいます。旧約聖書のヘブライ語が表す「シャローム」、すなわち、虐げられ弱くされた人々が願う平和ではありません。そのため「平和」に様々な言葉を加えて説明し、聖書における「平和」の特別な意義付けをしています。

今、インターネット投稿サイトには平和が目的だとする勇ましい言葉が並びます。それを聞く戦争体験者からは、まるで昔の戦時中の時の様だと嘆きを聞きます。隣人を無視した平和がどうして平和となりましょうか。それは聖書の伝える平和ではありません。

聖書は「キリストの平和」を語ります。キリストの愛の言葉に心を重ね、静かに聞き取ってゆく、そこから平和が始まると今に語り続けます。信仰同様、75年目の「平和の音」を聞いてゆきたいのです。

 (日本キリスト教団野幌教会牧師 福島 義人・8月26日平和礼拝Ⅰより)

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